浩三の心を現代の若者に伝えたい。

1945年 23歳という若さで戦死した三重県伊勢市出身の戦没詩人/竹内浩三。彼の残した数々の詩は「戦争の悲惨」「平和の大切さ」そして何よりも「生きることの素晴らしさ」を照らし出しています。山田洋二監督「母と暮らせば」浩二のモデルにもなった竹内浩三の心が美しいメロディと共によみがえります。




1921(大正10)年 誕生5月12日 三重県宇治山田市吹上町184番地に生まれる。
1928(昭和3)年(7歳)四月、宇治山田市立明倫小学校入学。
1934(昭和9)年(13歳)4月 三重県立宇治山田中学校入学。
1936(昭和11)年(15歳) 8月、同級の阪本楠彦、中井利亮等を誘って「まんがのよろずや」と題する手作りの回覧雑誌を作成。以来、「MANGA」「ぱんち」等と改題しつつ出しつづける。
1937年(昭和12)年(16歳) 11月、「竹内浩三作品集」と題する文集をつくる。学校への提出物が中心であるが、中にマンガ、日記、ユーモア小説等あり。
1940(昭和15)年(19歳) 4月、父善兵衛が前年に死亡し、それまで父の反対でかなわなかった念願の日本大学専門部(現芸術学部)映画科へ入学。
1942(昭和17)年(21歳) 6月1日、在京中の宇治山田中学時代の友人、中井利亮、野村一雄、土屋陽一と『伊勢文学』を創刊、以後11月までに5号を出す。9月、前年10月公布の勅令第924号にもとづき、日大専門部を半年間繰上げて卒業。10月1日、三重県久居町の中部第38部隊に入営。
1943年(昭和18)年(22歳) 9月20日、茨城県西筑波飛行場に新たに編成された滑空部隊に転属。挺身第5聯隊(東部116部隊)歩兵大隊第2中隊第2小隊へ配属。
1944(昭和19)年(23歳) 1月1日「筑波日記Ⅰ  冬から春へ」執筆開始
1945(昭和20)年(23歳)4月9日、昭和22年三重県庁の公報によれば「陸軍兵長竹内浩三、比島バギオ北方1052高地にて戦死」。

竹内浩三の詩に作曲していて、あらためて認識したのは、彼が現代の青年(私とも)と何ら変わらない青春をおくっていたということだ。大学(日大映画学科)に通い、芸術論を友人たちと熱く語り合い、毎日喫茶店でコーヒーを飲み音楽を聞き、恋をしてはふられる・・・そんなあたり前の青春が詩に溢れていた。
 
1945年4月、浩三はフィリピンのルソン島で戦死してしまった。彼の役割は「きりこみ隊」という地上における「特攻隊」であり死は決してまぬがれない任務であった。

「長生きがしたい」(宇治橋)と彼は書き残した。「みんながみんなで愉快に生きよう」(五月のように)とも書いている。23歳という若さで生涯を閉じた彼の言葉の数々は「生きることの素晴らしさ」をいっそう重く明るく照らしているのだ。その声を、是非現代の若者に届けたいと思っています。 


▼五月のように(CDプロモーション動画)
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岩瀬よしのりプロフィール歌手・作曲家・演出家
  1973年(高校1年の時)現在のグループの前身「フォークグループ鬼剣舞」を結成。以来コンサート・作曲・プロデュースなど幅広い活動を続けておりステージ数は8000公演を超える。作曲家としても映画・コマーシャル・合唱曲・劇音楽など数多くの作品を手がけ演出家としても活躍中。
 「竹内浩三の世界」作曲は、彼にとって「構成詩曲 にんげんをかえせ」(詩/峠三吉)「原爆被爆者証言組曲 虹の碑・母子像」(詩/増岡敏和)に続くライフワークである。


岩瀬よしのり

Program

五月のように ぼくもいくさに征くのだけれど ボクガ戦ウ

※組曲 中学時代 うどん 放尿 東京 替え歌 説教 しかられて 冬に死す 宇治橋

(※大学時代)江古田の森 金がきたら 金こない 大正文化概論

※組曲 失恋 あきらめろと云うが 麦 こん畜生 海

※組曲 兵役時代 帰還 わかれ~御通知 夜通し風がふいていた 演習1~望郷

冬に死す 宇治橋

骨のうたう ハガキミタ~山田ことば(白い雲)三ツ星さん
※コンサートの時間などにより、曲目および構成は変更することがあります。ご了承ください。

▼「金がきたら」サンプル音源

▼「海」サンプル音源

▼「三ツ星さん」サンプル音源

▼「わかれ」サンプル音源


岩瀬よしのり

トリオ


浩三の日記より

パンフレット

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